おとぎばなしは おわらない

春じゃん。

ってなる。

障子越し、朝の光で目が覚める。春すぎて笑う。白湯で薬を飲む。トレイに、イチゴ、サンドイッチ、ミルクティー味の豆乳、適当に千切りして塩で揉んでちょっとマヨをかけたキャベツをのっけて庭に出る。陽の光が当たるところに座って食べる。

命の気配がすごい。花の匂い。遠くの鳥の歌。冬の荒天時のホワイトノイズみたいなザーザーと違い、寄せては返すリズムが安定している、寝息みたいな波の音。ありんこ。ありんこに砂糖をやりたくなる。砂糖を取りに戻るのがめんどいので、イチゴのへたに、赤いとこをちょっと残してかじってありんこの方へ放る。

春はワルツを聴きたくなる。しょうがねえ気取り屋文系やろうだなと思うけど、こう書きたくなる。「春はワルツを聴きたくなる」。

4拍子のロックは個々の心臓の高鳴り。
だけど、
3拍子のワルツはこの世の生命のめぐり。

パティ・ペイジを聴きたくなる。めちゃくそド貧乏で、「スポンサーの社名がペイジだったから」って理由で芸名が死ぬまでペイジだった歌手、死ぬまでペイジの名で歌い続けた歌手、パティ・ペイジ。パティ・ペイジはワルツばっかり歌っとる。歌っとるのか歌わされとるのか知らんが。ダンシング寝取られソングこと「テネシー・ワルツ」をみんな好きみたいで、Apple Musicで一番になってたけど、みなさんそんなにダンシング寝取られ経験がおありなんですかねって思うけど、わたしは「モッキンバード・ヒル」が好き。一番悲しいから。

歌い出しの「ダララー、デリリーリーラ」の続きの歌詞がこれだと思ってた。

「it kills me and trills」

——それはわたしを殺し、そして、トリル音符のようにゆらゆらゆらめく。

そんな歌詞がめっちゃ優しい、教育テレビ〜〜〜って感じの、教会帰りの日曜日〜〜〜って感じのワルツに乗っている。最高。なんと美しき悲しみよ。マジで最高オブ最高。って思ってたんだけど本当は「it gives me a thrill」だった。「ダララー、デリリーリーラ、スリリングだわ。」

「モッキンバード・ヒル」を聴いて、春の陽、きもちよくボロボロ泣く。ダララー、デリリーリーラ、殺しのトリル。命はめぐる、モッキンバードヒル。中原中也の「春日狂想」も思い出す。“愛するものが死んだ時には、 自殺しなけれあなりません”。

人間の心臓はワルツでは鳴っていない。人類が作った音楽の割合で言うと多分一番多いのが4分の4拍子なんじゃないかなって感じがするのはそういう理由だと思う、心臓の鳴っている体で作っている音楽だから。でも、ここにある体を離れて、いのちのめぐりを思う時、生まれるのは、やはり、ワルツだ。ワルツは、こわい。おわらない。ワルツは、やさしい。輪廻する。

ふざけて書いたワルツを歌う。ふざけてやっても、創作は、つくり手の欲を映すものである。ふざけてやっていたはずのことが、子どもの頃に聴いたワルツ、みんなのうたの「ぼくとディジャヴ」とつながっていることに気付いて、恐ろしくなる。

なにか、はかりしれぬ、絶対的なものに抱かれて、すべてがめぐる。いのちが、因果が、季節がめぐる。はかりしれぬ絶対的なものに対する畏怖と、不思議な安心と。ヨーロッパの人たちは、秋の収穫や春の訪れを祝い、男と女のつがう祭りでワルツを踊ってきた。男と女を踊らす力の中にあっても、自分の思うあの人と踊りたい、自分の思うこんな服で踊りたい、そう思う人たちは、神に抗うもの、異常、病気、そういうことにされた。アメリカのレズビアン資料館、LHAでは、ずいぶん資料収集に苦労してきたらしい——死んだ女が女に書いたラブレターを、遺族とか、遺された恋人とか、そういう人が燃やそうとしてしまうので。女が女を愛したという事実を、葬り去るために。

いのちはめぐる、怒りをもって。今朝の陽はけっこう熱くて、燃やされた恋文の熱みたいだ。陽、という意味の名を持ったあの子の、目の中の模様が、陽の光に透けた時のことを思い出そうとしている。思い出せない。それはきっと、あの時のわたしたちに、キスをする勇気がなかったから。