学校を三つ辞め、義務教育中はずっと図書室にこもっていた。
一度も就職をしたことがない。
人間関係に困難を感じている。
適切な睡眠や栄養摂取といったことに困難を感じている。
アルバイトを転々とし、現在は自宅で文筆業を営んでいる。
そんな感じのことを精神科で話したし、精神科医の先生が診断書に書いてくれていた。その診断書は糊付けされた封筒に入っていて、封筒はマジで閉めてありますよという意味であるところの「緘」という漢字が押されていて、患者自身が読むものではないというシステムになっていたが、患者であるところのわたくしは、わたくしについて書かれている文章を読む権利が当然あるものと思い、あとはこの世の中の仕組みの中でどう思われていても自分は自分だから何書かれてても別に傷つかない自信があり、よって、「封筒 開ける 跡をつけない」でググり、その方法を以て封筒を開けて中身を読んだ。
でもすげえ適当な性格なので跡がついてしまった。
やっべ、と思ったけど、その書類を処理する行政窓口の担当のお方は別にそんなこととか気にしてない感じで書類を処理しておられた。
ぼくはここ最近の生活で自分を取り巻く概念を整理しようと試みる。とりあえず色々並べる。
WAIS
LGBT
ADHD
IQ
みんな近代西欧出身の概念なわけじゃん、と思っている。人間をパーツのように分類整理して社会システムを組み上げることで自然を支配管理していこう、だって僕たち人間は神の似姿をもってこの世に遣わされた存在なのだから。アーメン。みたいな感じを感じている。
キリスト教が成し遂げたことは色々あると思う、救貧院とかハンセン病患者のホームとか女子高等教育の普及とか色々とわたしから見て素敵だと思うこともキリスト教の力で成し遂げられたけれども、反面、奴隷制とかLGBT差別だってキリスト教の教義を利用して正当化されたことだ。「人間をパーツのように分類整理して社会システムを組み上げることで自然を支配管理していこう」みたいな感じがわたしはとにかく徹底的にイヤである。
だからWAIS-IVについてググった結果出てくる、
「高IQ団体に所属し、頭のいい人の考え方をみなさんに紹介しています」
「境界知能と診断されたので障害者枠で就職できませんでした」
みたいな何もかもを生きている人々のその背後に、なんていうか、「おのれ、キリスト教ドグマによりこの世を支配しようとする奴らめ」と言いたくなる何かの存在を感じてしまう。
繰り返すがキリスト教が嫌なわけではない。
「人間をパーツのように分類整理して社会システムを組み上げることで自然を支配管理していこう」という感じが嫌なのである。
そんなことを言い出すわたしのこれも、システム次第では、症状として扱うことが可能な何かになるのであろう。お薬増やしときますねー。
とにかく人間が人間を理解し分類整理しようという試みに興味があるのと、文筆業をやっていく上で役に立ちそうだなというのと、単純に羽田と成田を間違えたりする感じはいわゆる生きづらいというやつだなというのと、自営 or DIE、就労無理。それ以前に、服を着て社会生活を生きていくには感覚過敏すぎているのが無理。という感じであったので、最近は精神医学のことをいろいろ知ったり体験したりするという行為を重ねており、こないだはフィンランドで統合失調症患者(とされる人)の独り言を徹底的に聴いて話して対話という形に開いていくというオープンダイアローグの話を聞きに行ったし、このたびはウェクスラー式知能検査を受けた。
こどもの頃にやらせてもらっていた七田式右脳開発みたいなノリであった。パッと見で図形の並びから法則を見出す、とか、感覚的だったり漢字が多くていかめしかったりして説明が難しい単語の意味をあえて言語で説明する、とか、科学や文学の知識を問う、とか、そういうやつであった。
パズルとかクイズみたいでたのちい。と思った。
もしかしたら自分は頭がいいのかもしれない、ということだけが幼少期から心の支えであったので、「イラストの中から欠けている最重要の部分を指摘してください」という問題に全然答えられないことが続いた時にマジで泣きそうであった。「試験とは関係ないですが答えを教えてください、指差すだけでいいですから」と頼んで指差してもらってそれでもわからなかった。「物事には完璧な、あるべき姿がある」という思想に同意しかねているのだ。テーブルが3本足だってそういうデザインかもしれないじゃん、って思う。何かの部品が一個足らなくたってそれでも別にギリ使えてて成立してるのかもしれないじゃん、って思う。だからなんか、あると楽しいなと思うものを答えてしまう。(テーブルの上にミルクがあって欲しいですね)と思って「ミルク」とか答えてしまう。
そういう自分について、こうやって、わざわざ人に見えるところに日記を書いている。
まだ結果は出ていないのだが、最後の診察の時に、知能検査を担当してくださった心理士さんとは別のお医者さんに「どうもIQが高いみたいですね」と言われた。イラスト問題で勝手に想像してしまって泣きそうだったおれは両手を上げて「わあい」といってしまった。
そんで、この日記を書いている途中で、ADHDという概念の歴史についての本をポチった。
知能検査の結果が良かったからといって素直に喜んでやるほどバカじゃねえぜ、と思いたい。この世に知能検査というものを作り出した奴らの意図を見抜く知能を持ちたい。それは能力的な問題というより、根本的には、意志の問題だ。