悲しみたがり

ゲイバーにおいては、「ブス」という言葉が意味転覆させられている。そこで飛び交う「ブス」には、たとえば顔がクシャクシャの犬っころに「ぶちゃいくだね〜」って言いながら可愛がるときの感じだとか、アタシはアンタの思い通りになんかならないクソババアなのよみたいな露悪趣味だとか、本当にお互いよく知っている間柄の友達に痛いところを突かれて「うっせーバーカ」って言うときの満たされ感だとか……一度転覆させられた「ブス」という言の葉に、話者と場面によって色んな意味が乗っけられている。ぷかぷか、ブスの笹寿司。

わたしは日本語ゲイ文化圏の住人ではない。たまにイベントに行ったり、見た目から男と寝る男として認めてもらえないし実際そういうわけでもない人間でも入れてくれるお店に誰かと一緒に行ったりするだけの、ビジターにすぎない。なので知らんけれども、日本語ゲイ文化圏においてこういうブスの意味転覆みたいな現象が起こるのは、多分、こういう理由だと思っている。「嘘のつかされ疲れ」。「父ちゃん母ちゃん俺元気でやってるよ、これが彼女だよって見せた写真の女の子が実は事情わかってくれてるレズビアンの友達にすぎない」とか、「職場の人たちがホモネタで笑っている中、ゲイバレしたくなくて自分も笑っているふりをした」とか、そういう日常をずっと送ってきて、もう、うんざりぽんなのだ。日常を無難に回してくれる言葉たちに対して。だから、「おブス!」ってなるのだ。ぷかぷか、ブスの笹寿司。

日常を無難に回してくれる嘘は、日常を無難に回してくれる柔らかい言葉たちでできている。

朝、あるヴィジュアル系バンドの公式ファンクラブサイトの音声コンテンツを流す。ファンクラブサイト内のコンテンツだから口外しないけれど、わたしの言葉に換えて要点だけ言わせてもらえば、ファンからメンバーに対するこんな質問だった。「おそらくはみんなが悲しいとは思わないであろう、むしろ爽やかなものだとされているであろうこういう場面で、わたしは、悲しいと思ってしまうことがあるのです。メンバーさんはどうですか。」

答えはこういうような内容だった。「自分はその場にいないので」。それから、付け足した。「だけれど、しらっちゃけて、あたたまっていってしまうのが、悲しいと思うことは、自分にもあります」。

明るさ、温かさ、よろこび、どんなに欲しがっても与えられなかったからもう求めないと思うことにしたものたち。そういうふうなほうが良いということにされているからそういうふりをしてきたものたち。明るく温かくよろこびに満ちているのだというふり。「父ちゃん母ちゃん俺元気でやってるよ、これが彼女だよ」。

うそくせえ。

って思って、意地でも暗いとこに住む。悲しみたがる。痛めつけあいたがる。その方がずっとずっとリアルだから。わかっている。これは単なる悲しみたがりなのだ。そうなんだけど。そうなんだけど。

きれいはきたない、きたないはきれい。シェイクスピアかなんかの劇に出てきた。夜が死ぬとき朝が来て、朝が死ぬとき夜が来る。そういうくるくる。それを感じていたい。だから言の葉を転覆させる。悲しみたがりは、よろこびたがり。