ちゅん天來了

今日は旧正月だと思う。

さみい。さみいんだけど、さみい中で決然と梅が咲いている。

人間としての社会生活の上でやるべきことをやらず、ホケーっと梅の木を見上げて立ち尽くす。メジロちゃんが2羽、メジロちゃんとして生きる上でやるべきことをやっている。ちゅんちょこちゅんちょこちゅんちょこと、梅花の蜜を吸っている。ちょんと跳んで、ちゅんと吸う。ちゅんと吸ってまた、ちょんと飛ぶ。一つの花を延々と吸い続けることなく、まんべんなく、ちょっとずつ吸っている。

全部だいたい同じ味のはずなのに。なんでだろう。一つの花をずっと吸ってた方があんまり動かなくて済むから楽なはずなのに。なんでだろう。ちゅんちょこちゅんちょこちゅんちょこちゅんちょこ。メジロちゃんらはいそがしそうである。ちゅんとしたクチバシでちっちゃな梅の花をつっついている、つっついても花が散らないくらいの力で。ちゅんって。ちゅんって。

ちょっと首を傾げたり、きゅっと目をつむったり、メジロちゃんのちゅんちょこは、眠る人間にこっそりキスをする人間のしぐさに似ているなあと思った。盗み食い、ならぬ、盗みキス。ああやって小鳥とか蜜蜂が花に顔を突っ込むから花というのは受粉して実を結ぶのであって、そう考えるとちゅんちょこってエッチじゃん、って思った。まったくもって春である。

冬のあいだ、寒くて餌も少ないあいだ、メジロちゃんらはどんなにか、ちゅんちょこを楽しみにしていたことだろう。あまいかぐわしいちゅんちょこのことばっかり考えて、暗い寒い冬、羽毛をぷっくぷくにふくらませながらなんとかやり過ごしていたんだろう。まだかなあ。まだかなあ。毎日のように梅のつぼみのふくらみぐあいを見に行っていたんだろう。

春と書いて「ちゅん」と読ませるようにした、漢民族の言葉のセンスまじでめっちゃわかるって感じがする。そうですよね、ちゅん、ってなりますよね全体的に。でもフランス語の「プランタン」もそれはそれでわかる。「プランタン」って感じするよね春は。「はる」もすごいわかる。だって「は……」だし、でもまだ「る……」要素もあるじゃん。列島の春、しゅんと寒かったり。霞がかかったり。気圧がバーンってなって頭もパーンってなったり。ふとんの中で「る」の字みたいに膝を抱えて、ちゅんちょこのことを想ったり。

時の支配者グリニッジ天文台とかの都合に合わせて「スッゲー!僕も先進国おにいちゃんたちの仲間に入れてください!」ってなって日本は旧暦や不定時法の時間をかなぐり捨ててしまったわけだけれども、「こんなんきょうび流行りませんよね!やーめっぴ!文明開化〜🙌」みたいになってもうたわけだけれども、そういう人間社会のあれとは別の軸でメジロちゃんたちと梅はちゅんちょこを繰り返している。それが始まるくらいのタイミングで「新春だ、春節だ」ってなってお祝いをするのは、やっぱり、いいなあ、いいもんだなあ、って、思う。

めちゃくちゃストレッチをして、打楽器のレッスンを受ける、打楽器トレーニングもボイトレも似ていて、「数多の人類が編み出してきたやり方で修行をするとなぜか一つの個人のもともと持っている素質が立ち現れてくる」みたいなところがある。打楽器なら個人個人の持っているビート感とか、他の楽器とやるときはそれらに対する絡み方。声なら、きれいに聞かせようとか大きく響かせようとか、今日は喉の調子が悪いからなあとかそういうことじゃない、体の奥から吹きあがる風が声門を鳴らすような、ただ吹いているような何か。

それが「來る」って、旧字体で書きたくなる。來るものの気配に対してひらいていたい。